hijikigohan’s diary

おうさまのみみはろばのみみ

『特撮ガガガ』と母娘トラウマ

昨年の漫画は『パタリロ!』をぼちぼち読んでいた。隙間時間に完結型、内容忘れても大丈夫、話数もあって暇潰しに最適。100巻以上あったのに気づいたら連載に追いついた。
年末年始は久々にまとまって『特撮ガガガ』を読んだ。オタクあるあるコメディの中に、母娘バトルが軸としてあって、それがどうにも個人的につらい。叶ちんと母とのバトル、全く同じではないけど身に覚えが思い出されることがつらい。子どもの頃の大問題なんて「それくらいのこと」ともいえる、でも、叶ちんのように囚われているのは私だけじゃないと思う。
心理学系の育児書のあとがきに、30代長女は母との歪な関係のために家族のあり方や人付き合いに基盤がなく、子育てや家族関係に悩む人が他年代より増えているとあった。そしてそれには、時代背景として幼少期に共働き世帯の急増や核家族化といった家族構造の変化があったことが影響している、と。
うちの母もずっと仕事をしているし、祖父母とも別居だった。仕事が忙しく、祖父母に頼りにくい状況で子育て、しかも上の年代はその状況を経験していない。当時は母も必死だったのだろうと同情もできる。保育士として働き、公務員として父以上に稼ぐことを自負する母だった。子育ての専門家なのに自分の一人目の子どもがまるで思い通りにならないことを認めたくもなかったのだろう。とはいえ、こっちだって一人の人間なんだ。多少の同情くらいでは、長年抱えた複雑な感情との折り合いは付かない。
それぞれの家庭で人の気持ちや境遇に全く同じはありえないけど、長女・母親バトルのケースにある程度似た傾向が見受けられる事実。極めて私的で、個人的な問題だと思っていたことに、社会的な時代の流れ、家族構造の変化が関わっていた可能性を考えると感慨深いものがある。しかしなんでまた、その弊害は家族の中でとりわけ長女・母親の関係に集中しがちなのか。
あと、ランドセルが赤黒二択だったのなんて、年月の中ではほんのいっときの事で、それで揉めて悩んだのもごくごく一握りの人。それでも同じ事で同じように一人悩んでいた人たちが当時、集めれば一定数いたという事。当時は「変な子ね」で済まされていた事が集まって問題として認識される構図は、発達障害HSPの特性が昔より広く知られるようになっている事とも似ている。今時の子どもには今時の困難があるとしても、パステルカラーのランドセルを見ると絶対とされていたことも変われるんだとうれしく思う。
そして大切な宝物が、親にバレれば焼き捨てられたという経験が、滑稽にも見える必死のオタ隠しにつながるという事。隠れキリシタンは見つかれば終わり。好きなもの、大切なものは絶対に隠さないと、見つかれば吊るし上げて笑いものにして捨てられる。これも身に覚えがありすぎる。あくまで漫画、フィクションだから誇張表現だと思う?毒親ひどいありえないと世の中の特殊例として切り離す?家庭内のことって、驚きの独自常識がまかり通っていたりするし、それは外から簡単に見える構造ではない。親子の相性にもよるし、他の「家族」を知らない子どもには気づけない。離れてようやく気づいたとしてその価値観に浸されて育ってきた人格に今更何ができるのか。『特撮ガガガ』、大好きだけど切なすぎる。
あとあれだ、ゴールデンボンバーのガガガガガガガは良い曲だ。

youtu.be

大学のレポートをブログにまとめることについて

どうなんでしょうか。

大学のレポートをブログにまとめることって。

著作権は本人にあるので問題はないそうです。

そもそも書いているのが学生時代の本人なのですから、稚拙な表現、怪しい読解、偏った主張なども見られます。

しかしまぁ、ネット上の情報だって十分に玉石混合。

引用元や参考文献をしっかり書き連ねている点では、学生のレポートの信憑性だって、いち意見としてはネット上に転がしておいても何の問題もないものなのでしょう。

むしろ、そういった意味では、いち意見としてブログにまとめて公表しておくことにもメリットはあるかもしれません。

レポートってどうやって書いたらいいの?と困惑する学生なりたての方なんかには参考になったりするかしら?

でも、学部によって、先生によって、授業によって、指定されるテーマも様々だし、今思えば書く学生によっても書き方なんて自分で決めちゃいなさいなという感じだった。(少なくとも私の通った学科では)

今時は、レポートのコピペを検出するツールなんかもあるそうで?

そしてまぁ、思い返せばくそまじめな学生だった私からすると、自分の意見を考えることを学ぶために学費まで出してんのに、ネット上で拾ったわけのわからん他人の文章をそのままコピペって提出する人なんておるんかいな、と。

参考までに一読、ってのならわかるけど。

誰かの参考になったり、自分の文章が誰かの役に立ったりすることあるかなぁ。

そうやって読んでもらえるなら何にしろとても嬉しいのだけど。

 

でも、今の私にとって、学生時代のレポートをブログにまとめることは、心理的に大きな意味を感じる。

読み返して、タイトルをつけて、他人から見られる状態にしておくこと。

こんなこと書いてたのかぁ。

難しい本読んでたのねぇ。

主張を通したくて解釈曲げてないかなぁ。

あ、誤字発見。

今だったらこんなこと書けないなぁ。

けっこう良いこと書いてるなぁ。

わかる!この表現すてき!

…と、いろんなことを感じながら、データを開いたり、コピーしたり、書体を揃えたり、カテゴリーつけたり、公開したりしています。

何より思うのが、若気の至りも多いにしても、学生時代の自分ってかなり良くやってたんじゃない!?と。

私も捨てたもんじゃないな、と自信につながるような気がします。

同時に、今の自分の不甲斐なさに悔しさも感じるのですが。

 

いつか、私が死んだとしても、ブログはサービスが終了しない限りネットのどこかに浮かんでいる。

そこにある、ということに意味がある。

パソコン捨てたときにデータを保存し直したかどうか覚えていなくて、USBにほんの少し残されたデータを見て、他は失くしたかと一時は思いました。

でも、外付けHDにバッチリ移されていたのを見つけたときの嬉しさ。

フォルダ名「ドキュメント」がわかりづらくて見つけづらかったけれど、中にはバッチリ、年ごと、講義ごとにフォルダ名・ファイル名がしっかり付けられて残っていました。

さっすが真面目で几帳面!昔の私!

 

かつての自分を評価したい。

これから、まだ何かできると信じたくて。

それが、今さら私が大学のレポートをブログにまとめることの意味なのだと思います。

 

思ったより時間かけてしまってめんどくさいけれど。

時間かかってしまうのは、全部読み直しているからだから。

今は2年生まで終わったところで、3・4年生の自分が書いたレポートは、さらに読み解くのに時間がかかるややこしい文章が多い。

それに、3年生の途中でゼミの教授が亡くなられており、それに派生した少々辛いことがあったのも思い出される。

将来も不安で、どうしたらいいのかわからなくて、でも講義を聞いたり、レポートを書くのは割と好きだったりした。

もしもあの時に戻れたら、なんて思ってしまうのは耕野裕子さんの少女漫画を年末年始に読みあさったせいもあるかも…。

戻れませんからね、けっして、それはもう。

戻りたいことばかりでもないし。

だから、いいのです。

今は、今の私にできることをする。

できることの中で、したいことをする!

それでいいのだと思っています。

将来の4つの妄想と抱負

久しぶりの休み!

何時間かだけど、まとまった休み!

万歳!!

年末年始は主婦にとって休みなどない。

とりわけ、一歳児がいたり、夫がせっかちで心安まらない人柄だったりした場合には、日常よりストレスフルだ。

私はストレスが溜まりに溜まると、首のあたりがモヤモヤと苦しくなる。

しかしこのまさに真綿で首を絞められるような感覚、共感を得たことは今のところない。

 

晦日から義母を巻き込んでの大喧嘩。

疲れた。

その後も何度怒鳴りあったことか。

子には申し訳が立たないが、私だけが我慢していたら心が死ぬ。

間違い無く。

 

せっかく!久々のひとりを満喫できる時間なのだから、今は顔を見なくて済む鬱陶しい奴のことをわざわざ考えて腹をたてるのは止そうじゃないか!

ということで、少々前向きに夢を見たいと思います。

パソコンの中だけね。

夢を描いたっていいじゃない。

夢見るだけなら無料。それを書いておいても無料。

タイムイズマネー?

貧乏人はタイムをマネーに変える能力がないからこそ貧乏を現状維持してしまうのです。

努力しろって?

いつだって私の自問自答は結構なシビアなのですが。

それはさておく夢見がちなのです。

(これがかろうじてそこそこハッピーを捨てない秘訣にもなっている)

 

夢を描きます。

将来、こうなれたらいいなぁと願うことです。

もちろん妄想です。

何の努力も(今のところ)しておりません。

(胸張っていうことじゃない)

 

その1、自分だけの書斎がほしい。

書斎でなくて、部屋でもいいです。

六畳くらいでもいいんです。

自分だけの空間。

実家に自室がなかった私にとって、プライバシーの守られたプライベート空間を持ちたいという切なる願い。

一人暮らしを始めて得たのですが、結婚とともに失いました。

家具や収納も自分で選んで、お気に入りのもので落ち着ける空間を!

そこに置くものはすべて私だけのもので、共用のものだとか、ちょっとしまっといてとか、いない間に勝手に置かれたり持って行かれたり見られたり動かされたりしない!

私だけの空間をどうか!

(積年の思いで熱くなってしまいました…はぁ…今はないのが心底辛い)

 

その2、鎌倉に住みたい。

これはもう、本当になんとなく。

憧れの地です。

角野栄子さんや、西田幾多郎先生もその地を愛したという…。

歴史もあり、レトロおしゃれなイメージ。

海も近いし、紫陽花寺やら江ノ電やら。

好きな漫画の場面になっているのもポイント高しです。

一番は谷川史子さんの「各駅停車」かな。有名なのもいろいろあるけど。

あぁ住みたい。

そしてそこに夫はいてほしくない。

 

その3、小説家になりたい。

なんだろう。

なりたいって言うばかりで作品を書き上げない人っていうのが、まさに私にあてはまるのですが。

この歳でそんな現状な時点で、まぁただの、本当に言うだけならタダ状態なのですが。

不思議なことに、昔々から何故だか漠然と抱いている夢、ですね。

不思議。

この漠然とした憧れと、何故か湧いてくる私には人には書けない面白いものが書けるはずだという微塵も根拠のない自分への期待。

どこから来てんでしょうね。

そしてどうして、この夢は消えないのでしょう。

図書館司書とか、心理療法士とか、その時々で抱いては消えた将来やりたい職業への気持ちもあるのにね。

消えないんですね。

まぁ今のところ。

転々とした仕事や引越しや、辛く周りが羨ましいだけの結婚や、自分の時間が一切なくなる子育ても。

すべての経験がいつか何かの形で作品に昇華されればなんて考えるだけで、そんな日が来るはずと考えるだけで、無駄じゃないと過ごせる気がする。

おっとネガティブ。いや、転じてスーパーポジティブか。

 

その4、お金持ちになったら、受け口を矯正し、虫歯系を完璧にテコ入れしたい。

昔から自分の受け口がコンプレックスで。

ずっとこれで来ているわけだけど、もしもお金が有り余るような人生が訪れたならば、しっかりした歯医者で直してみたい。

直せたら、しゃくれが少なくなって今より美人になれないかなぁなんていう願望もあり。

地味な普通顔だけど、少しでも綺麗になりたい乙女心ね。

本当は、親が注意してくれたり、小さい時に矯正してくれたら良かったのになぁと今だから思う。

でも、そんなに目も金もかけられず育ったような自己認識ですので。

有り余るお金があったら、歳を取ってからでもできるのかしら。

虫歯は、多すぎで今はもう歯医者もお手上げ。

ちょっとの虫歯は見逃して、痛くなったら来てください状態なのが嫌。

いつ爆発するかわからない爆弾を口の中に抱えているような気持ち。

見た目が汚いのも嫌。

甘いものを長時間ダラダラ食べるとかね、歯磨きしないで寝るとかね、もう、昔の自分をどつきに行きたい。

「なんだよもう、うるさいなぁ」と思われるだけだとしても!

譲れないわ。

祖母からの口移し離乳食や、受け口や糖尿病も虫歯に影響しているのかもしれない。

あと、何回か当たったハズレ歯医者ども!!(怒り)

そう遠くない歳月を経て、総入れ歯になってしまうのでしょうか私は。

総入れ歯だと、食べ物の美味しさが今ほど判別できなくなるというのは本当なのでしょうか。

そういったことが、私は恐ろしいのです。

にもかかわらず、痛いのを避けたいのと、歯医者の腕前を信用しきれないのと、数千円にも切迫する家計状況のせいで、ギリギリまで歯医者を先伸ばしている現状があるのです。

 

 

今、パッと思い浮かぶ夢はこんなところでしょうか。

4って縁起悪いわって、もう一つくらい考えようとしたけど、浮かばなかった。

「子に充分な遊びと教育を」とかは、もう夢っていうか、生活の中で実現を目指すものですからね。

ぽけーっと、いつかこんな未来が実現しないかしらんと妄想浮かべて遊べるのは、今の私にとってはここらへんの夢ですわ。

5年くらい前かな?

以前にも妄想の夢を、落ち込んだ友人と一緒に書いて話した記憶があります。

その時にもランクインしていたのは確か、書斎と小説家。

そんなところですね。

フランスに行きたい、インドに行きたい、野草でいっぱいの庭が欲しい、とかもあった気がします。

今はそれらにはそれほど惹かれませんね。もちろん叶う機会が来たのなら喜んで!ですが。

いや、やっぱりフランス、インド、野草の庭も欲しいな。

よくばる。だって妄想だから。

 

あと、内面的には「いじわるばあさん」。

長谷川町子先生のアレです。

いじわるっていうか、迷惑を顧みないイタズラですよね。

他人の迷惑に遠慮なんかしないで、自分がおもしろいと思う気持ちを忠実に実行する。

憧れる。

思い返せば中学生くらいの時には、将来ああいう人になれたらなぁと感じていました。

夢はばあさんになることっていう乙女もいたもんです。

今の歳は、おばさんくらい。

ばあさんと呼ばれるその日まで、いじわる心を大切に「イッヒッヒ」とか「ニヤッ」という笑いの似合う女性を極めたいものです。

そんなこんなが、今年の抱負という感じでした。

 

ツイート1件でアカウントロック

「昔の自分の才能に嫉妬することなんてあるんだなぁと、昔書いた文章を読んで思った」

 

大学の時に書いたレポートのテキストデータがあって、自分ではそこそこいいこと書いたのか自信はないけど成績はなぜかとても良かったので、向いていたのだと思う。

だからまぁ、文字どおり押入れに埋もれさせておくのは勿体無いような気がして、かといって利用先も全くアテがないので、ブログにまとめてみようとしている。

大学生でレポートの書き方に迷っている人とかの参考になるかしら、なんて考えたり。

もしくは、誰かお仕事につなげてくれそうな人の目に止まらないかしら、なんて打算的な。

 

そうそれで、昔の自分は良かったなぁ、としみじみ。

興味のあることにいくらでも時間を費やせて、好きな本をいっぱい読んで、好きな教授の聞きたい講義を聞いて、書きたいことをレポートに詰め込んで…。

そういうことをして、真面目で優秀な学生として評価されていたなんて、幸せもんですよ、全く。

でも、当時は全くそんなこと思っていなかった。

真っ暗闇だと思っていた。

親のお金で大学通って、ぬくぬくしてたのに気づかなかったんだよね。

まぁ、そういうのって抜け出してみて初めてその環境の良さに気づくっていう。

だからもしかしてもしかしたら、今の私みたいな救いようのない環境でも、何年も経って振り返ったら、幸せだったわアノトキ…ってなったりするのかしらねぇ…。

どうだろう。

今よりひどい状況に陥るなんて、想像もしたくないけど。

うん、どうせなら、あの頃は酷かった!って思えるくらいは幸せになっていたいわね。

 

冒頭の文に「」を付けたのは、ついさっき急に思い立って、結構前々から気になっていたtwitterを登録したのよ。

今さらだけど、やっぱり気になるから!

そうして、冒頭の文をツイートしたところ、なぜでしょうか、速攻アカウントロックされてしまったのです。

どうして?

あなたはロボットですか?と何度も聞かれて、もういいわ!と画面を閉じました。

何がいけなかったの?

最近のSNSに疎い田舎のおばちゃんそのものですね…。

そんな私にもわかるように、何がいけなかったのか教えてもらいたいものです。

というわけで、twitterへのもやもやした思いをブログに綴ったのでした。

特別支援教育について

仕事として、一般的な学校に通う、障害のある子を見ている。

「一般的な学校」とわざわざ書いたのはつまり、支援学校ではないですよということ。

 

今年の5月から始めたパートの仕事だ。

地域によって、学校サポーターとか、支援員といった名称で呼ばれているらしい。

自治体によっては何らかの資格を持った人でないとなれなかったりもするそうだ。

障害者の教育をサポート、と考えると、専門的な知識が要りそうな気配がするのもうなづける。

しかし、たまたま私の住んでいるところでは特に何の資格も経験も不要で、その上勤務時間が短くて保育園のお迎えにぴったりの、今の私にお誂え向きなお仕事であった。

 

 

面接時に「障害のある子というと、どんな子がいると思いますか?」と尋ねられた。

私はとっさの頭の回転が壊滅的なので、

「いろいろな…いろいろな障害が、それこそいろいろと考えられると思います」みたいなことを言ったと覚えている。

今思い出しても、我ながら頭の悪い受け答えだった。

結局、いろいろしか言ってないじゃん!っていう。

帰宅してから、小学校の同級生にいた補聴器つけてる子とか、大学で同じサークルにいた足が不自由な子とか、知的障害があって支援学校に通っていた友達の弟のこととかを思い出して、「あぁ…そういうのを具体的に言えたら良かったのかなぁ」と激しく反省したものだ。

あんな、アホみたいな答えじゃなくて。

 

ま、アホみたいなことしか言えない未経験・無資格者でも、ともかく採用されたわけですよ。

同僚は支援学校の元教師さんだったりして、私みたいなのが紛れ込んでいていいのやらと思いながらも、半年もすれば何となく、こんな感じでよろしいのでしょうかって感じのことは掴めてくる。

で、実際のところ、今私が大事だと思っているのは、その子をひたすら見ること。 

知的障害があるからどうだとか、情緒障害があるからどうだとか、ADHDだからどうだとか、知識はそりゃあ持ってて損することはないと思います。

でも、障害の枠組みだけでは、ほとんど何も見えてこない。

同じ障害でも人によって、程度も違えば、目立つ特徴も変わってくる。

さらにはお年頃だとか、クラスの他の子との付き合いだとか、家庭環境だとか、性格だとか、ちょっとやそっとじゃ測り知れない要因が関わって、その子の独特の困難を生んでいる。

それこそ、いろいろでいろいろでいろいろなんです。

これをおばさんが一人、授業に入り込んでサポートするといったところで、100%のサポートは無理です。断言できる。

なるべく助けてあげたいとは思うし、それが私の仕事なわけだけれども、うまくやるってのが具体的にどういうことなのか、掴めない仕事なんですよね。

とにかく、見る。

その子の状態と反応を、よく観察する。

どういう時にどうなっているのか。

どうしてみたらどうなるのか。

そういったことを少しずつ次の対応の時に活かしていければいいのかなぁ、と。

担当する子が何人かいるので、すべての子のあらゆる授業に出るわけにはいかないし、地道に時間をかけて関係を作ったところで、新年度からは担当が変わったり、生徒が卒業したりってこともあり。

非常に地道で成果が見えない。

 

今日はもうお迎えタイムが来ました。

これに関する話、続くかも。

仕事については日常的にもやもやもやもやしておりますので。

もちろん、個人情報や特定につながるような出来事には触れずに考察していきたいと思います。

ちなみに今回、試行錯誤で目次と見出しを入れてみました。

私が占いに頼る理屈。

今日は朝から仕事に行きたくなかった。

布団から出たくなかった。

こんなのって、子どもだけじゃないんです。

 

そんな時、私は占いに頼ります。

何も特別なものじゃない。

ただのYahoo!の毎日星占いです。

占いの点数が良いと、今日はもしかして良い日になるのかな?と期待が持てます。

占いの点数が悪いと、うまくいかなかったとしてもそもそもそういう運勢なのだから仕方がない、と諦めがつきます。

私にとって星占いは、メンタルコントロールの役割が大きいです。

ちなみに、占いが外れて良い日になったら、結果良い日ならそれでOK!

占いが外れて悪い日になったら、予想を外した占いが悪いのです。

こう見ると、重要なのは「何か悪いことがあってもそれは私のせいじゃない」と考えることみたいですね。

そういうのって、他力本願で自己責任を放棄した、やる気のないやつに見えますかね?

でも私は、努力や自己責任にばかりを偏重する生き方は、とても苦しいものだと思うのです。

自分が関わった事柄がうまくいかなかったとき、自分の努力が足りなかったのか、判断を間違えたのか、あのときああしておけばよかったのかもしれない…などと、取り返しのないことをくよくよ考えたところで、自分を責める気持ちになるばかりです。

そうしてくよくよ振り返った反省が、次に似たような事態に出会ったときの対処として生かされることがないとは限りません。

しかし、いつまでも自分を責めて過去のことを悔やんでばかりいるとむしろ、自分にはできなかったというマイナスの自己評価ばかりが誇張され、次の活動へと気持ちを切り替えることや、自分に自信を持って取り組むということに繋がりにくいように思います。

 

そんな時に、私は占いに頼るのです。

何の根拠があるんだかわからない星占い。それも無料。

当たるかなんて半信半疑。頼りたくても頼りなくって、成り行きに任せるしかありません。

そこがいい。

なるようにしかならない。

私の努力や私の判断ばかりが、悪い日の悪い結果につながっているわけではない。

私だけの力ではどうしようもないことは、しばしば起こる。

星占いの、あのすべて見透かしたような物言いと信憑性のなさこそが、私に冷静さと、行きたくない仕事に足を向けるモチベーションを与えてくれるのです。

 

周りが皆自分より幸せに見えて仕方がないときに。

ストレスフルです。

うまくいかないことが山盛りです。

今の仕事、絶対的に私向いてない。

毎日顔をあわせる夫が、こんな人じゃなかったらいいのにとしょっちゅう考えてしまう。

こんなときに、SNSのお知らせ(積極的に見ているわけではない)で、昔の友達の華々しい活躍や幸せそうな様子が目に入ると、妬み、嫉み、僻みに狂いそうになります。

ちなみに、妬み、嫉み、僻みは、三位一体で襲ってくると言います。

(三つの「み」というダジャレです。解説は蛇足)

 

まわりがみーんな幸せそうに見えるときって、あるんですよね。

他の人たちの生活が、実際のところどうなのかなんてわからない。

私だって、何も知らない人からは、そこそこ良い暮らしをしていると羨ましがられることもありうるかもしれない。

要するに、断片的なことしか知らないから、他人の生活の羨ましいところばかりが目につくものなのです。

とりわけ自分が最低な気分のときなんてそんなもの。

だいたい、何もかもうまくいかないと後悔と自責の念にとらわれているけれど、自分で卑下するほど、周りの人は私を役立たずで邪魔なだけなんて思っていないことだってある。(もちろん、その方が多いと信じたい)

 

書いていたら、妬み、嫉み、僻みの急流が少し弱まってきた気がします。

書くことって大事。

自分の気持ちを、客観的なものにする。

言葉の形にするだけで、気持ちと思考の間に距離ができて、自分がそういった感情を持っているのだということを自覚できる。

そして様々な可能性を書き出す中で、はじめは鬱々としていても、そのうち前向きな可能性にも目を向けることができる。

私にとってはこれ、精神安定上とても重要な作業。

 

あれ?

ブログで収入得たいとかほざいてたのはいつのことでしたっけ?

これじゃあ、ストレス発散のために書き散らかしてるだけじゃない?

目的のために何か儲かりそうなことを書くのって、私向いていないのでしょうか?

早々に諦めるなんて意志薄弱なんでしょうか?

まぁいいか。

王様の耳はロバの耳なのです。

古来より、心の中でもやもやするときは、井戸なり地面なりに向かって叫ぶしかないのです。

私にとって、今のそれはここ。

ゴミ箱か!っていう。

こんなものを公開してしまっているけれど、良いのかしら。

他人のゴミから生活を伺って楽しめる方なんて、ごくごく一部ですよね。

でも、どんなにニッチでも、ゼロじゃない。

割れ鍋に綴じ蓋の需要と供給があることを、経験から私は知っている。

だからいいのです。

私は書きたいことを書く。

これは仕事じゃない。

人目を気遣って体裁を整えまくるのなんて、まっぴらごめん!

本音を言えば、仕事でも、好きなことだけをしてお金をもらえるような人になりたいんですけどね…。

理想ですよ、そりゃ。

好きなことは仕事にしない方がいいなんて、それこそ旨味を知っている人が他の人を近づけさせないために辛い側面も主張しているだけにしか聞こえない。

だけど、なりたーい!って、夢見心地でつぶやいているだけじゃダメなんですよね。

私自身は、どうなりたいのかを宣言することすら大の苦手だったので、まずはココからなんですけど。

問題はココから。

具体的にどういう状況を目指すのか。実現するためには何が必要か。そのために今しなければならないことは何か。

しっかり考えた上で、継続して実行に移すことが大切なのだと思います。

ちょっと今すぐはキツイな…。

時間がないな…。

休みの日くらい休みたいな…。

そんなこんなで、もやもやグータラすること30年。

はぁ。

「人生はいつだって、今が一番若い」

って言葉が身にしみるのは、そこそこ年をとったから。

はぁ。

See you again!